メンタル(10月)
最初は、長年の仕事から解放された感もあり、心も少し軽やかだったが
それもあまり長くは続かなかった。
それ程、仕事人間では無かったのに、自由になったのに、なぜか自分が糸の切れた
たこのようにただ家の周りを漂っているように感じられる。
散歩していて、道行く人を見ると、皆、働いているんだなあと、じぶんだけ別の
世界に取り残されたような気になる。
今まで、月に1回程度だけど、近所の仲間で飲んでいた。
皆、忙しい中、なんとか日程を調整していたが、自分だけはいつでもフリー、
皆はいままでと同じように働いているので、何かギャップを感じてしまう。
家族との間合いも変わってくる。
今まで、長時間かけて通勤していた。そのため、土日や長期休みに何とか家族との時間をとる事に努力してきた。
これが毎日、しかも1日中、うちにいて妻とは、顔を合わせる。
子供はもう会社勤めで、うちにいない。
何か、常に家族の顔色をうかがうような自分が嫌になる。
仕事は見つからない。
不採用通知を受け取るたびに落ち込む。
趣味に目を向ければと思うが、今まで時間が無くてできなかったと思っていたことが
たっぷりある時間の中でなぜかそれ程やる気がおきない。
この心のもやもやはどこから来るのか。
一つは、人間常に、何か評価を求める。そこに生きている意味を見出す。
会社というところは、よくも悪くも評価がくだる所だ。
誰からも評価が、なされないと何か落ち着かない気持ちになるのかもしれない。
唯一、評価を受けるのが、家族だ。
ちょっとしたことに落ち込み、気持ちを左右される。
他に、評価される対象を作ればよいのかも。
写真の趣味は、通常は自己満足だ。誰かに評価される事はまれで、よほど
優れた写真を撮らなければ、満足するような評価は得られない。
そう考えると、仕事でなくても小さな人間関係を作る事はいい事かもしれない。
しかし、もしかしたら、根はもっと深いところにあって、職場を含む人間関係が
そのもやもやした何かを忘れさせてくれていたのかも?
わずらわしいと思っていた仕事のプレッシャーが無くなり、自分と向き合う事で
その何かが少しづつ見えてきてしまっているのかもしれない。
それは迫りくる人生の終わりだろうか。客観的に見れば、今まで重ねて来た
年数は明らかだが、自分自身の認識が、年相応に変化していない。
考えている事は、若い時のままかもしれない。
年齢から逆算する残り時間が、どうしても自分の実感と結びつかない。
死は、だれにも必ず確実にやってくる。
自分にはその備えができていない。
怖いというのでもない何か夏休みがおわりに近づいた頃、やり残した事を
意識するような焦りににた思いかもしれない。
就職する事はこの焦りを忘れさせてくれるかもしれないが、本当に自分を
納得させてくれるものを見つけるために、今のこの自分のもやもやに
もう少し向き合ってみるのも必要かもしれない。